神崎祐典|Kanzaki Yusuke|Infomation|Covid-19 指定感染症外
  
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私は医療従事者でもなくウイルス研究者でもない。作家でも記者でもない。ただの一般人である。一般人であるからこそ、一般の者が今回の騒ぎで感じたことを書くことに意義があると思っている。ただそれなりの医学用語などが出てくるので、書くにあたっては医師の方数名にご協力を頂いている。私には専門的知識が何もないので、学術的なことや医学的なことは、一部の抜粋を除いては一切書かない。余り技術的過ぎると読む側も疲れるし、理解できないことも少なくないからだ。それに新型コロナウイルスなるものが存在するか否かを判断するのに、そのような“高度”な知識など一切不要だ。医者でなくても学者でなくても、これが茶番であることぐらい理解できる。
 
 
 
先日NHK・Eテレの早朝番組「100分deナショナリズム」で吉本隆明の“共同幻想論”を紹介していた。日本を代表する思想家である吉本隆明の本で、学生運動が激化していた1968年に出版され、当時の青年たちに熱心に読まれ、「共同幻想」という言葉は国家や権力の本質を言い当てた言葉であると言われた。吉本は、戦時中「絶対的に『善なるもの』として戦争を鼓舞してきた文化人達」が敗戦後に簡単に意見を変えたことで「権威に対する不信感」を持つことになる。何を信じてよいのかわからない混沌状態の中、前提を根本から考え直し、自らの思考によって価値観や国家観を組み立て直さねばならないというものだが、難しいことはさておき、吉本は、人間は集団になると幻想を抱くと言っている。これを聞いてまさに今の日本の状況と同じだと思った。コロナという幻想を集団で抱いているではないか。
 
 
 
私自身は自然医学を信じ、何十年も玄米食で病気知らず。まず医者へは行かず薬も飲まない。風邪はひくが、基本的には放っておくし、発熱した場合のみ地竜を煎じて解熱している。今時、そんなことをする人も皆無だろうし、地竜が何かを知っている人もほとんどいないだろう。世の中の人は病のメカニズムを微塵も理解していない。風邪は人からうつされるものではない。自分の身体が疲労した時、もとに戻るために出す諸反応を総じて風邪と呼んでいるに過ぎない。それは人によって、あるいは場合によって発熱であったり、咳であったり、鼻水であったりと様々だ。つまりはこの反応を経て身体がリセットされるわけで、言い換えれば諸反応が出切らないと治らないということだ。医者の薬は効くというのはとんでもない錯覚である。風邪というのはだいたい2日目辺りがピークなのである。大半の人はちょうどその頃に医者へ行く。放っておいても下降線をたどるのだが、ちょうど医者で処方された薬を服用する時期と重なるわけだ。ではうつらないのにどうして同じ時期に風邪をひくのかということになるが、それは寒い時期や気候の不順な時期は誰しも内臓の機能が低下するからだ。また同じ時期に風邪をひけば症状が似通るのも当然だろう。もし本当にうつるのであれば、全員一人残らずひくはずだ。コロナに感染すると味覚や嗅覚がなくなる、などと戯言を耳にしたが、風邪ひいて鼻が詰まれば誰でも味覚や嗅覚を失う。何を今更わかり切ったことを人生初めての体験のような言い方をするのであろう。またそれを聞いて一笑に付さず、何も考えずに深刻に受け取ってしまうのが今の平和ボケした日本人なのだ。
 
 
 
今回の騒動の背景には5Gやスマートシティ法案、ワクチンの強制接種など様々な政治的要素が絡んでいるようだが、私はそれらには詳しくないのでここでは触れない。ただワクチンの接種は確かに誰がどう考えてもおかしい。こんな感染者の97%が無症状の病気(?)になぜワクチンが必要なのか?ワクチンなどというものは何年もかかって開発されるべきものではないのか?それを今回はものの数か月で接種を開始しようとしているのは驚きだ。なぜそんなに不要なものを急いで接種する必要があるのだろう。これが当初からの目的だったのか。しかも世界規模で進んでいるため、個人個人の力では如何ともしがたいのだ。だいたいワクチンなど何の効果もなく、後遺症や副作用など危険しか伴わない。ある医師も毎年冬になると毎日インフルエンザ患者が100人ぐらい来院するが、その半数は予防接種を受けた人だと語る。私は小学生の頃、一度だけインフルエンザの予防接種を受けたことがあり、見事にインフルエンザに罹ってしまった。後にも先にもインフルエンザに罹ったのはその時だけだ。いかにワクチンなるものが有害無益であるかわかると思う。今回のコロナ騒動が最初から強制ワクチンや5Gなどを目的として起こされたのか、あるいはマスコミがうまい具合にこの騒動を作り出し、悪者達がそれに乗じたのか、そこまでは私にはわからない。最初からワクチンを用意していたという説もあり、ワクチンのおかげで業界は何十億もの利益を得るらしい。その業界がWHOや何とか財団と共謀したというのが有力だが、私にはそのあたりの知識がないのでこれ以上は書けない。それでもWHOの言動はどう見てもおかしいのではないか?ワクチン業界と手を組んでいるのは確実だろう。後述するクライシスアクターを雇った広告代理店の背後にはWHOがいるという説もあるが、十分あり得ることだ。ワクチン屋と組んで世界征服を目指しているのだろうか。
 
 
 
ともあれ私には自然医学のベースがあるため、武漢で流行したこのコロナが風邪の症状の一種に過ぎないと最初から思っていた。そもそも現代医学やマスコミなど微塵も信用していない。何か新しい症状が出ると、すぐに新型何々という名前を付けて宣伝したがるのだ。人間は病という幻影にとにかく弱い。なぜなら病というものの基本を理解していないからだ。病はウイルスであれ生活習慣病であれ、何であれ全て自分自身に原因があるのだが、人間はそれを外へ求めようとする。自分は悪くない、悪いのは外にある、という典型的な西洋の考え方である。残念ながらこの考え方が人類を支配してしまっており、その意味では開国150年以上経った今でも日本は欧米思想に支配されていると言える。病は自分に原因があるという自然医学を実践しておれば、今回の新型コロナウイルスがマスコミと医学界によって作り出されたものであることはすぐに理解できる。それにコロナに限らずウイルスというもの自体、本当に存在するのであろうか?どこにその証拠があるというのか?目に見えないものをどうやって確認できるのか?本来、民間療法や東洋医学にウイルスなどという考え方はないのではないか。全て西洋医学から来ている。明治政府はそれまでの優れた民間療法を捨て、全てを西洋医学に切り替えたのだが、その際にメンタルまで西洋化されてしまったようだ。そうして150年以上に渡って日本国民は西洋医学に洗脳されし続けてきたのである。あるフランス人医師が、ウイルスは外から来るものではなく、内側から発生するものだと言っているが、これは西洋人ながら東洋的な考え方である。
 
 
 
感染の概念
 
 
 
コロナ騒動ではしきりに“感染”という言葉が使われ、民衆に刷り込んでいるかのような感がある。自然医学会の故森下会長のお言葉をお借りすると、そもそも感染という概念は、バクテリアはバクテリアからというパスツールの細菌学原則を前提として成立している。例えば肺の病巣において結核菌が検出された、と仮定しよう。ここで唯一つ確かなことは、「その時点においてそこに結核菌が存在していた」ということである。しかし、そこにいかにして結核菌が存在するに至ったか、という由来については2通りの考え方がある。一つは「結核菌ではないものから結核菌に姿を変えた」という立場であり、もう一つは「結核菌は結核菌以外のものからできるものではないし、またその他のものに変わることはない」というようにパスツール流に解する立場である。もし後者が正しいとすると、病巣に見られる結核菌の最初のものは「外から移入された」としか想定されない。そこで初めて「感染」の概念が成立するのである。しかし意地悪く考えると、最初の結核菌が呼吸路を介して無垢の肺臓に付着し、増殖し、そこで初めて結核病が発症した、と証明した人はいないし、実際にそれを証明することは不可能である。
 
 
 
ということはコロナに限らず、病が何であれ感染などがあるという根拠などどこにもないということだ。コロナに関してはしきりに飛沫感染などという、それこそ何の根拠もないことが“センモンカ”と呼ばれる人達によって喧伝され、猫も杓子もマスクを着用する破目になってしまっている。考えてみれば歯科医や歯科衛生士でコロナに罹患したという話を聞いたことがない。飛沫感染が本当であるなら、最も危険な職業であるはずだ。本当にウイルスがあるのであれば、この患者との至近距離でマスクやフェイスシールドなど役に立つはずもないではないか。ここでもコロナの出鱈目が立派に証明されているではないか。
 
 
 
テレビの画面でNHKなどがよく見せているコロナウイルスの画像。あの手のものは作り物に過ぎない。何せ視聴者は何もわからないのだから、こんなものいくらでも簡単に作って騙せる。違うというのであれば一般人が納得できる証拠を見せてもらいたいものだ。それにどうもテレビ局によってウイルスの形状も異なるというから可笑しい。このような画像を見せて視聴者の不安を煽るというのはどういうことだろう?仮にも公共放送にそのような権利があるのだろうか?
 

 

 

難しいことには触れないと言ったが、新型コロナウイルスは存在しないという根拠だけ述べておきたい。新型コロナウイルスなど存在しないと言うと、その根拠はどこにあるのか?と反論して来る人が少なくないのだが、では新型コロナウイルス自体が存在するという根拠はどこにあるのか?それこそどこにもないではないか。新型コロナウイルスはどうも遺伝子のエクソソームではないかという見方が有力だ。
 
 
 
遺伝子にはDNAとRNAがありDNAは二重螺旋構造で長期間の保存に使用されて、RNAは一本鎖構造であり一時的に利用される。生体内ではDNAは一旦RNAへと情報が転写されRNAの情報を元にタンパク質へと翻訳される。ウイルスが生き物ではなくRNAである事を考えればウイルスの生成や目的について疑問が生じる。新型コロナウイルスとエクソソームを比較してみてもそのサイズや構造はまったく同じである。
 
 
 
出展 アンドリュー・カウフマン博士
 
 
 
病原体として新型コロナウイルスがエクソソームではなく単独で存在するのであれば、細菌の遺伝子でもDNAであるのになぜ長期間の保存に適さないRNAなのか?そのRNAの転写元は何なのか?という疑問が生じて来る。新型コロナウイルスの正体はエクソソームであると考える事が自然である。今まで長年ウイルスは怖い物であると世界中を騙しワクチンで莫大な利益を上げて来たが、最近になりエクソソームの存在が明らかになって危機感を感じたワクチン業界やWHOなどが今回の新型コロナ騒動を起こしたのではないだろうかとも考えられる。
 
 
 
あるCOVID-19患者受け入れ病院で勤務する医師が言うには、Natureという医学界で最も権威ある論文に書いてある「新型コロナが見つかった」という内容は以下の通りである。普通、科学ではこうして得られたRNAのことを生命体として認めることはない。掃除機の中にたまったゴミやホコリの塊を新型コロナと呼んでいるだけだ。新型コロナは存在していないのである、とコロナ患者受け入れ病院で勤務する医師は語る。余談だがこの医師(女性)が勤務する病院でも患者をコロナ認定すればそれだけで3倍の報酬をもらえるそうだ。
 
COVID-19患者受け入れ病院勤務医師作成
 
 
 
また医師の中でも小児科の医師達にはまともな人が多いようだ。コロナは“ただの風邪”というと猛反発する人がいるが、とこはる東栄病院小児科の医師が言うには、風邪の中には軽症のインフルエンザ、RSウイルス、アデノウイルスによるプール熱、ペルパンギーナや手足口病などの夏風邪が含まれる。これらの風邪はウイルスがわかるので、“ただの風邪”とは言わないで病名を告げる。なので風邪とは200種類以上ある風邪を起こすウイルスの中で、どのウイルスで起きているかわからないものを“ただの風邪”と医者は言う。その中にコロナも入るというわけだ。
 

 
 
今回の悲劇の最大の要因は、今の日本人が悲しいことに平和ボケし切っていることだ。海外で一般庶民の暮らしを体験された方々であればわかると思うが、日本ほど治安の良い国はまずない。ヨーロッパへ行けば、比較的治安の良い国でさえスリは沢山いるし、ジプシーに抱きつかれて財布を盗られることも珍しくない。フランスのパリなどは移民や難民も多く、どこの国籍の人がどんな格好で歩いていても目立たない。この中からテロリストを探し出すのは至難の業であろう。そこへ行くと日本はまだまだ特殊である。外国人が増えたと言ってもやはり目立つし、普通に街中を歩く分には何ら身に危険を感じることはないだろう。落としたものが戻って来るのは日本だけだ、というほどではないか。日常的に大きな変化がない。変化に慣れていないのだ。そこへこのコロナの報道。人々はたちまちにしてパニックに陥り、マインドコントロールされてしまったのである。平和ボケした日本人はテレビの報道を鵜呑み̪にし、自分自身で情報収集することをしなかった。思考停止した頭では、コロナが何なのか考えることすら及ばなかったようだ。一度恐怖に取りつかれると科学的思考は失われ、いくらデータを見せて説得を試みても無駄なようだ。テレビを疑うことをしない。テレビは日本人を馬鹿にすると昔言われたそうだが、今の状況を見ると全くその通りである。
 
 
 
そこへ行くと欧米人は普段からテロその他で、良くも悪くも精神的に鍛えられている。よく欧米の個人主義は日本において批判される。個人主義というと自分さえよければ他人はどうでも良い、という考えなのではと思いがちであるが、それは大間違いである。個人主義である以上、自分で物事を考えて自分で判断しなければならない。自分の言動行動に責任がついて回る。今の日本人とは正反対だ。また個人主義というと、確かに自分の主義主張を通すことになるが、言い換えれば相手の主義をも認めることになる。日本人は違う。人を自分の考えに同調させたいという思いが強く、むしろ日本人こそ他人を認めていないのである。日本人は他人に対して思いやりがある、と諸外国の人々は思っている。果たしてそうだろうか?コロナ騒動で浮かび上がった人達を見ていると、自分さえよければ良いという人が圧倒的に多いのではないだろうか?自粛を叫ぶ人々は、それによって損害を被る人達のことを全く考えていないではないか。“協調性”という言葉が日本にはあり、何かあるとすぐに協調性があるとかないとかという話になるが、協調性というのは、要するに自分の意見を口にしてはいけないということなのだ。
 
 
 
ビジネスにおいては、欧米では各部門に責任者がおり決定権を持っているのに対し、日本企業は時間をかけて共同で決定を行う。それが必ずしも悪いことではないが、日本人はこの“責任”という言葉に弱い。何かあった時に責任を取るのが嫌だというのが日本人最大の特徴で、この日本社会の象徴でもある。それゆえ全国の知事などはこの“責任”回避のために競って緊急事態宣言に便乗したし、日本企業は欧米企業と違って合同で決議する。それはあたかも全体の意見を尊重するという風に見えるが、実は誰も責任を取りたくないからに他ならない。今回のコロナ騒動でもその責任回避が露骨に出てしまった。政府は専門家会議などという意味不明の作業班を設け、ここに丸投げした。つまり自分では責任を取りたくないからだ。ではその専門家会議が責任を取るのかといえばそうではない。過ちを一切認めず、うやむやにして晦ましてしまう。責任の所存が常に不明なのが日本国の特徴である。
 

 

日本人と欧米人の精神面の違いは特に若者において著しい。これも個人主義と非個人主義の差なのかも知れない。大学にしても日本には一流大学から三流大学まで無数にあり、聞いたことのない名前の大学すらある。日本の若者は一体何のために大学へ行くのだろう?自分の意思や目的を持ったものなどほんの一握りで、大半は何となく行くのではないか?入学試験こそそれなりに競争は激しいかも知れないが、一旦入ってしまえば誰でもまず卒業できるし、就職にしても自分が勉強してきたことと無関係の仕事に就くものがほとんどだ。そこへ行くと欧米は違う。目的なしに大学へ行くことは少ない。すでにこの時点で自分の考えをしっかり持っている。一貫して自分で物事を考えるという教育を行っているからだ。日本は違う。自分で考えてはいけないのだ。今思えば確かに日本の高等教育には自分でものを考えさせるということがない。常に課題が与えられ、それに対する回答を考えるのみだ。自分で何か新しいことを考えるという教育は決して行わない。それを思えば戦前と何も基本的なことは変わっていないのだ。成績優秀者ほど実は自立していない。むしろ“落ちこぼれ”の烙印を押される子供の方が、実は自分なりの考えや行動を持っているのかも知れない。独自の考えや行動は日本社会では受け入れられず、疎外されるために“落ちこぼれ”の烙印が押されてしまうだけのことかも知れない。高校までの教育が“奴隷教育”と言われるのも頷ける。制服に髪型、厳しい校則に教師に対する反発は一切許されない。これは社会に出るためと言われるが、要するに企業にとってはそのような教育をしっかり受けた若者が使いやすいということだ。
 
 
 
コロナ騒動が起こっても大半の大学生は何も感じていないのか、何ら反応が見られない上に従順にオンライン授業を受けているようだ。コロナがおかしいとは思わないのだろうか?そのような思考回路は完全に麻痺してしまっているのか。その点海外の大学生は違う。みんな自立して自分の意見考え方を持っている。学生が立ち上がって抗議デモを行うことは珍しくない。香港のデモにしてもそうだ。最後まで戦っていたのは大学生だ。日本の大学生は良く言えば大人しい、悪く言えば自分の考えがないのだ。実に制御しやすい。それというのも高校まで自分で考えることがなかったからだ。就職戦線になると企業にしてみれば、こういうルートに乗ってきたエリート大学生は自分の主張もなく実に扱いやすいし、自分の企業カラーにたやすく染めることができる。日本の学歴はその意味で大事なのだ。日本には個性は要らないのである。
 
 
 
ツイッターでは時々オンライン授業に不満を持っている大学生の投稿が見られる。しかしだから何をしようというわけではなく、ただボヤいているだけである。同情する声も見られるが、私は大学生には同情しない。高校生までは仕方ないが、大学生ともなれば立派な大人であり、自分で物事を考えて行動しなければならない。でなければ高校生以下と何ら変わりがない。経営や経済を勉強していれば、自粛が何を意味するかぐらい理解できるだろう。海外留学や国際交流をしている学生も少なくないはずだ。海外のコロナ事情についても情報収集できるだろう。一体何のために普段このような活動をしているのか?どうして早急に仲間を集めて何らかの抗議活動をしないのか?海外のようなデモは日本の大学生には無理だろうが、署名運動ぐらいならできるであろう。とにかく内側から運動しないと、外からでは何も変わりはしないのだが、残念ながら今の日本の大学生は思考力も行動力も奪われてしまっている。
 
 
 
歴史的背景
 
 
 
真夏になっても頑なにマスクをし続ける現代人。真面目と言うか愚直と言うか、なぜここまでしてマスクにこだわるのか理解に苦しむところだが、日本の歴史を考えてみるとその謎が解ける。日本という国は本当の意味で民主主義だったことがあるのだろうか?歴史を紐解いてみれば常に軍事政権の支配者がおり、一般大衆はそれに従って来ただけである。大和朝廷の時代から、平安時代、鎌倉、室町そして戦国以降の近世を見ても、織田信長や豊臣秀吉、そして徳川政権と常に誰か絶対的な支配者が一人はいた。江戸時代は少し特殊で徳川家康が対抗勢力を全て駆逐したことや、家康自身が特別長生きしたことなどにより、これに歯向かう者もいなくなったために長期政権となるのだが、その後江戸後期になると将軍自身は操り人形となり、大老や老中のような側近達が実際に政治を動かすことになる。今の自民党と酷似している。自民党総裁が首相となるが、首相はいわば飾りで、背後の権限を持った人達が政治を動かしているという点では全く同じかも知れない。ごく一部の人間によって国政が行われていることは江戸末期も今も何ら変わりがない。一般大衆は常に何も知らされないままなのである。
 
 
 
幕末になると外圧により国内は一変する。幕末の志士達、久坂玄瑞、高杉晋作、坂本龍馬らは純粋に本気で日本国を思い、欧米の属国とならないよう倒幕に奔走した。日本にとっての最大の不幸は、こういった超一流の人物がほぼ全て明治政府樹立を待たずに他界してしまったことだ。彼らが無事であれば、もう少し違ったものになっていたであろう。結果、徳川から薩長伐へと支配者が入れ替わっただけのことで、一般大衆はそこには参加していないのだ。フランス革命のように民衆が蜂起して王政を倒したのとはわけが違う。日本ではただ単に“上”が変わったに過ぎないのだ。
 
 
 
なぜ幕末にあのような有能な志士が出たのであろうか?それは歴史の因縁以外の何物でもないだろう。関ヶ原後の体制でそのまま幕末まで来ていることを忘れてはならない。関ヶ原で戦わずして敗者となったのが薩摩の島津と長州の毛利だ。土佐の長曾我部は完全に潰され山之内が入った。島津は遠国でもあったため、徳川は渋々領土をそのまま認めざるを得なかった。これに対して毛利は大幅に領土を削られ、分家である吉川の領土に閉じ込められることになった。島津以上に、毛利氏には徳川に対する怨恨があったはずだ。そういった経緯から、幕末に吉田松陰という人物が他の藩ではなく毛利家に出たのは、これはもう歴史の因縁としか言いようがない。吉田松陰その人には倒幕の意思などはなかったが、その優れた門下生によって倒幕へと進むのである。これには徳川家に対して毛利家が持ち続けた恨みが大きかったはずだ。それが爆発的なエネルギーに変わったわけだが、考えればそれも毛利家の武士階級に限られた感情であった。
 
 
 
極言すれば明治維新は薩長と徳川の戦いであり、それ以外の藩も部分的に武士階級が参加したに過ぎない。一般大衆には関係のない戦いであった。明治政府樹立後、薩長のバランスが崩れ、長州の一流人物が全て先に死んでしまうことになり、薩摩の大久保利通が政権を握り独裁政治を始めることになる。大久保と意見が対立して下野した西郷隆盛が西南戦争に担ぎ上げられ、結果として西郷も大久保もこの世を去ることになったのは大きな痛手であったであろう。この結果、超一流の人材が全て姿を消し、二流三流の輩ばかりが残ってしまい、日本という国を不幸へと導くことになる。この時点で日本の政府が何をしたのか、欧米列強とどのような取引をしたのか、一般大衆には何もわからないし、今でも謎のままなのではないだろうか?
 
 
 
そして戦後変わったのかと言えば、実質的には何も変わっていない。政治の構造自体が何も変わっていないのだ。一般大衆は相変わらず政治には参加せず、軍部から自民党へ政権が移動しただけのことだ。自民党が全てを取り決め、国民は何ら疑問を持たずに従っているだけで、この構図は江戸時代、いや大和朝廷の時代と何ら変わりがない。日本人が政治に無関心なのは世界でも有名だが、これは一つにはこのような歴史的な背景があるからであろう。一般大衆が自分で物事を考えて、自分の責任で行動するなどということは日本の歴史上なかったことなのだ。それに輪をかけて今の日本人は戦国時代とは違い平和ボケし切っている。そこへいきなり自分で考えることを求められても、所詮は無理難題なのかも知れない。全ては“お上”のお達しであり、“お上”が推奨することを疑うこと自体が異常であり、考える余地など微塵もないのである。あるいは考えなくても良い分、楽なのであろう。全ては“お上”が決めてくれ、それに従いさえすれば良いのだから、何もしなくても良いわけだ。“思考”などという概念はこの国にはないのだ。同じ考え方、人生設計、同じようなリクルートスーツを身につけて同じような髪型をし、決まり切ったエントリーシートを書いて面接で同じような答えしかしない。そんな人間を優秀とするのが日本社会なのだ。そこへ行くとヨーロッパなどでは履歴書とモチベーションレターを書いて自分で各企業にアプローチしなければならない。合同就職説明会などのように奇妙な催しは日本独特なのである。
 
 
 
日本人の特異性
 
 
 
日本人の特異性の一つに目に、見えないものを信じて恐れるというものがある。古来より山や木、石などありとあらゆるものに神が宿ると信じられ、恐れ慄かれて来た。幽霊や霊魂を信じるのも日本人の特性で、最近でこそ少なったが、夏になると怪談話が盛んになり、お化け屋敷も繁盛したものだ。幽霊や心霊写真などは下火になったものの、今でも本気で語る人はいる。私はそういったものを信じていない。自分の目では見えないからだ。しかし否定はしない。見える人にはきっと見えるのだろう思う。ただ見える人の方が圧倒的に少ないわけで、その意味では見える人に問題があるのだとも考えている。“本当にあった話”というのも、その人にとっては本当にあったことなのだろう。それでも心霊写真はインチキだ。ああいうものは今のCG技術をもってすればいとも簡単にいくらでも作れるであろう。昔のフィルムカメラでも結構簡単に作れる。私は昔から写真好きで、何千枚も撮っているが、“そのような”写真は一枚も撮れたためしがない。
 
 
 
目に見えないものを恐れるというのが今のコロナに対する恐れに通じているように思える。実体のないものを恐れるという点では同じだ。コロナという幽霊に怯えているのだ。根拠がないであるから、幽霊と全く同じとしか言いようがない。そう考えると、諸外国が覚醒したのに日本人だけが洗脳状態にあるというのも理解できる。数年前、フランスの友人にフランスの怪談話を聞かせてくれ、と頼んだところ、理解してもらえなかった。そのような概念がないからだ。東欧にはドラキュラ伯爵の伝説があるとはいえ、日本の目に見えない幽霊とは全く異質のものである。この概念の差がコロナから覚醒するか否かに大きく影響しているのではないか。
 

 
 

少し話が逸れてしまったが、コロナ騒動の全ての発端はマスコミだ。テレビがなければコロナもなかった。テレビ局は競って視聴率稼ぎのために武漢でのコロナ発祥を最大限に利用した。それとて今思うと本当にコロナだったのか疑わしい。ともあれ武漢で道端に倒れて苦しむ人々の映像や10代、20代の若者でも重症化するといって見せた海外事例の映像を演出して視聴者に恐怖を植え付けることに成功した。日本人はテレビ大好きで、テレビの言うことなら何でも疑わずに信じてしまうという特異性を持っている。特に高齢者などはテレビが唯一の情報源であることが多いために尚更だ。私はニュースやバラエティは見ないが、ワイドショーなどは相当にコロナを宣伝して視聴者の恐怖を煽ったそうだ。まあそれでも民法などは阿呆の集まりだから、少し聡明な人であればそれなりに割り引いて考えるだろうが、NHKは公共放送でもあり、真面目であると錯覚している人が多いのが問題。コロナではNHKは率先して恐怖を振りまき、海外のフェイク映像を平然と流し、新しい生活様式なるものを好意的に放送した。未だにコロナの扇動を続け、効き目が薄れてくると、コロナには後遺症が残るなどとありもしないことを持ち出す始末だ。後遺症というのは、服薬した薬の副作用のことであろう。もっと薬害について勉強するべきだ。民法とは異なり、アナウンサーは真面目腐った堅い口調と表情で話すために余計に深刻さを視聴者に感じさせるのだ。公共放送であることを考えれば、この罪は限りなく大きい。
 
 
 
2005年の秋、フランス・パリの郊外で移民が暴徒化する事件が起きた。北アフリカ出身の3人の若者が警察に追われ逃げ込んだ変電所で感電し、死傷したことをきっかけにフランスの若い移民達が起こした暴動で、最終的にフランス全土の都市郊外へ拡大した。繰り返すがパリの“郊外“での事件である。日本のマスコミは連日これを最大限大袈裟に報道し、NHKおはよう日本ではあろうことか、炎上した車の映像をエッフェル塔の夜景と合成して画面に映し出した。さも夜のエッフェル塔の下で車が炎上しているような映像をである。これを見た人はどう思ったことだろう?どう見ても夜のエッフェル塔の下で車が燃やされているように見えるではないか。これだけを見ればパリは無法地帯ではないか。このようなありもしない映像を流すのは犯罪ではないか。また読売新聞は一面にフランス非常事態宣言と大きな見出しをつけた。その非常事態宣言がどのようなものかは別として、日本でそのことをここまで喧伝する必要があったのか?他にもっと日本国民全般にかかわる大事なニュースはなかったのか?気になった私はパリ現地の友人達に訊いてみた。特に何の混乱もないという。私はその数日後に出張でパリへ行ったのだが、実際パリ市内は至って平和で、普段と何の変わりもなかった。これ以来、テレビの情報は一切信じないことにしている。
 
 
 
こんな偏向報道ばかりしていると、実際に自然災害が起こった時に困るのではないか?地震や大雨によって被害を受けた市町村がテレビで映し出されても、もはやそれが本当なのかどうさえかわからなくなる。全てはマスコミのせいである。
 
 

 

志村けんが忽然と消えたことによって“コロナ業界”は一気に活気づいた。日本医師会は緊急事態宣言を出せとしきりに要請。オリンピックが延期決定なるやいなやコロナが選挙材料になると判断した都知事は総理大臣側近を篭絡したそうだ。安倍内閣そのものは、当時は緊急事態宣言などに対して、さして乗り気ではなかったようである。仮にもアベノミクスという経済政策を打ち出した人である。その中身はともかくも、表面だけでも経済は何よりも大事なはず。緊急事態宣言がどれほどマイナス影響をもたらすか、いくら愚人であってもわからぬはずはない。しかしマスコミの煽りで世紀末のような世論が形成され、またアベノマスク2枚の配布を散々コケにされた総理大臣は、ついにメディアに押し切られるような形で緊急事態宣言を出すに至った。一体何が緊急事態なのか?この時点でコロナ感染者数はたかだか数百人ではなかったのか?その中に重症患者が何人いたのか?そもそも新型コロナウイルスが存在するというデータもなく、感染データも何も示すものがないのに、どうしてこのような緊急事態宣言を出せるのか?そもそも何が緊急事態なのか意味が分からない。移動自粛?いくら自粛しても物流は止まらないだろう。物が動けば人も動くではないか。
 
 
 
都道府県知事連中はこれに乗り遅れまいと競って緊急事態宣言を発令したため、あるいは要請したため、日本全国が緊急事態となってしまった。実際には何事も起こってはおらず集団ヒステリーが起きているだけのことであった。これぞ吉本隆明が言う共同幻想だ。日本式ロックダウンが実施され、企業はテレワークを推進し、人との接触を8割減らすことなどが奨励された。テレワークなどできる業種とそうでない業種があるであろう。できるぐらいなら、やれる人は最初からやっていたのではないのか?テレワークになると公私の区別をつけ難いし、メリハリがなくなってしまう。それに日本の住宅環境ではテレワークは難しい。欧米には早くからこの習慣があり、それほど抵抗はないようだ。それというのも日本と比べて居住空間が広く、一室丸ごと事務室のように使える人も少なくない。日本でそのような住宅環境に恵まれている人など、ほんの一握りしかいないであろう。狭い住宅の中で、どうやって作業をしろと言うのだろう。それを提言した人達 - 一部の“センモンカ“や高級官僚 - はそれだけの住宅環境に恵まれているのであろう。恐らく一般庶民がどのようなスペースで生活しているのか知らないのではないか。
 
 
 
不要不急の外出を控えろとしきりに言うが、不要の外出などあり得ない。何であれ理由があるから外出するのだ。「家にいることで救える命がある」などと一時はCMまで流れていたが、それを言うなら「外へ出ることで救える命がある」とも言えよう。緊急事態宣言の間も営業を続けていた店があるわけで、そういうところを利用すれば人助けになるではないか。また家におれば絶対に安全なのだろうか?高齢者など、家の中の事故で亡くなる方は結構多いのではないか?コロナ死とされている死亡者数よりも、家の中の事故で亡くなる人の数の方が遥かに多いはずだ。
 
 
 
個人的に言うなら、確かにわざわざ混んでいる場所に出掛ける必要はないと思うので、“密”を避けること自体には賛成だ。そもそも外出自粛の本来の目的はそこにあるのではなかったのか?ところが多くの愚直な日本人は外へ出ること自体を悪と受け取ってしまった。自分で物事を考えられない結果、このような結論に至るわけだが、中には本気でコロナを恐れるあまり、週に一度の買い物にしか出ないという人もいるそうだ。しかしそれで本当に病を防げると思っているのか?太陽光線を浴びず外の空気を吸わずで、どうやって健康を保って行くのか?今までどんな生活をして来たのであろう?若者は自粛して閉じこもっておれば、健全な精神にまで以上をきたしてしまうことだろう。これから多くの人に出逢って人間関係を構築して行かねばならない大切な時期ではないか。
 
 
 
高齢者は外へ出なければ確実に身体が衰えるばかりか、場合によっては認知症が進むことにもなるだろう。人間も動物も外へ出ることは基本なのだ。高校以下も随分と長く休校が続いた。コロナ患者など一人もいないにもかかわらずである。100名もインフルエンザに罹患しても学級閉鎖にならなかったのに、なぜ一人の罹患者もいないコロナのために学校全体が休校になるのか?とある小学生が母親に問いかけたそうだ。まあ学校の教育など何ら価値のあるものではないし、確かに学校へ行かなくても教育上の問題はなさそうだが、人との出会いを断ち切られることが一番嘆かわしい。感受性豊かな子供が学校という場で同級生と出会えないでどうするのか。どうも教育委員会そのものが“コロナ脳”らしく、全国の知事連中と同じで、誰も“責任”を取りたくないだけのことなのだ。何かあれば責任を取れと親が言うのだろうか?では登下校時に交通事故に遭えば、一体だれが責任を取るのか?
 
 
 
2年前の新幹線殺人事件を思い出して欲しい。「ムシャクシャしていた。誰でも良かった」と殺人犯は言った。このような過剰自粛が続けば精神に異常を来す人が確実に増えるし、それに伴う犯罪も増えるだろう。コロナを恐れるあまり子供を学校へ行かせないなどと言い張っている親は一生子供を外へ出さないつもりなのだろうか?コロナよりももっと身近な危険に配慮すべきではないか?そうでなくても未成年者をターゲットにした犯罪は少なくない。今後精神を病んだ者が増えれば、外出そのものが危険を伴うことになるだろう。
 
 
 
仕事に行く、あるいは散歩をする、という行為は緊急事態宣言の移動制限から外された。しかし日本人はここでも勤勉愚直で、多くの人が真面目にこの自粛に取り組み、外出を控えるようになってしまった。その結果として外食産業やレジャー施設は大打撃を受け、私の行き付けの食事処にも閉店してしまったところがある。何のデータも伴わない雰囲気だけの思い付きの緊急事態宣言のせいで、多くの企業や店舗が被害を被ったが、これに対する補償など何もない。しかも緊急事態宣言が解除された今になってもまだ件を跨いでの移動の自粛が知事間で流っているという有様だ。一人ぐらい男気のあるまともな知事はいないのか?“日本男児”という言葉からは最もかけ離れた人達だ
 

 
ツイッターはカフェ・スイーツ情報発信を目的に今年の1月に始めたのだが、いつの間にかコロナ専用になってしまった。一時あちこちの知事や市長に“リプ”をしたせいか、暴言は吐いてはいないのだが、凍結を喰らってしまい、新たにアカウントを作り直す破目になったのだが、当初はカフェ・スイーツでつながっていた人達が多かったので、一旦リセットでき結果的にはかえって良かった。ツイッターを始めて“コロナ脳”という言葉を知った。つまりはコロナを怖れる余り家に引き籠り、ひどい人は一週間に一度しか買い物に出ず、子供のいる人は学校へ行かせず開校に猛反対するらしい。勿論マスクは常時着用で、必要以上に消毒を繰り返すようなのだが、まあ自分が怖れて引き籠る分にはまだしも、他人を巻き添えにしようとする人が始末に悪い。更にエスカレートすると、“自粛警察”とか“マスク警察”なるものを名乗って正義中毒に陥り、自粛期間中に営業している店に嫌がらせをしたり、明らかに抵抗しない人を攻撃したりするそうだ。関西では余り見ることがないが、どうやら関東に多いらしい。関東と言っても、例えば東京など生粋の江戸っ子は少なく、結局は田舎者の集まりなのだ。しかし営業している店を応援こそすれ、嫌がらせをするなど、ちょっと関西人の精神では考えられないところである。こういう人達はコロナに関係なく、もともと少し頭がイカれているのであろう。いつまで経っても日本社会から“いじめ”という行為がなくならないのがわかるような気がする。
 
私はコロナ脳の人達を“コロナ教徒”と呼ぶことにしている。実体のないものを怖れるのはまさに宗教そのものだからだ。コロナ教信者になると、マスクして検温と消毒を繰り返し、家に引き籠ってひたすら感染しないように祈るらしい。宗教そのものではないか。「コロナはただの風邪だ」などとコロナを軽視した発言をすると、物凄い勢いで反撃される。それはそうだろう、彼らにとってのコロナは最高存在であり、恐れるべき神なのである。新型コロナの弱性を説明するにあたって、よくインフルエンザが引き合いに出される。インフルエンザの方が遥かに死者数も多く実際に危険だ。死者数も日本だけで年間3000人以上に上るらしい。しかし“コロナ教徒”達にとってコロナは神なのだから、インフルエンザなどと比較してはいけないのだ。彼らにはコロナ以外何も存在しない、人間は死なないと思っているらしい。また“ただの風邪”というと、「ただの風邪で人は死なない」などと反発する。しかし実際はその“ただの風邪“ほど恐ろしいものはない。時にはインフルエンザなどよりも遥かに強烈で死に至ることさえあるのだ。どうも“コロナ教徒”達は風邪がどういうものであるかわかっていないようだ。風邪をひいたこともないのかな?
 
“コロナ教徒”達は何かあるごとに、「自分の家族が感染しても同じことが言えるか?」とか、「マスクをしないで菌をまき散らしている」、「ただの風邪でこれだけの人は死なない」、「海外の映像を見たでしょ。子供でも死ぬよ」、「絶対に死なせない」などなど数々の“名言”を吐くのである。科学的根拠を全く持たず、完全にテレビに洗脳され切った人達である。家族が感染しても、と言ってもありもしないものに感染のしようがなかろう。マスクしないで菌をまき散らすと言うが、マスクの穴の大きさは5マイクロメートルで、ウイルスは0,1マイクロメートル以下だそうだ。意味のないことがわかる。それよりも、そういうことを言う人達は今まで何十年もマスクをして生活して来たのであろうか?インフルエンザその他の病が流行した時もマスクをしていたのか?また「責任を取れるのか」などと愚にもつかぬ発言をするのもコロナ教徒の特徴だ。しかし考えても見よ。「責任を取れるか」というなら、もし仮に私がどこかで交通事故にでも遭ったら責任を取れるのか、と言っているのと全く同じことなのだ。
COVID-19患者受け入れ病院勤務医師作成
 
志村けんが“亡くなった”ことと、相撲の28歳の力士が亡くなったことも“コロナ教徒”達の心のよりどころである。何かあると、「若い力士も亡くなっていることだし」などと言う。しかしこの亡くなった相撲の力士は重度の糖尿病だったそうではないか。コロナに関係なく風邪をこじらせて亡くなったのであろう。なぜそれを隠してコロナばかり強調したがるのか?それに若い相撲の力士の急死は何も珍しいことではない。第51代横綱玉の海は27歳で急逝。私は当時幼いながらファンだったのでショックだった。幕内の龍興山は22歳だった。また最近では元大関貴ノ浪の音羽山親方が36歳で亡くなっている。力士は頑丈に見えるが、無理をして身体を大きくしているので相当な負担がかかっているのである。


「これだけの人は死なない」、というが一体どれだけの人が死んでいると言うのだろう?
 
統計によると昨年同時期比で横ばいかむしろ減少傾向にあるではないか。日本国内のコロナによるとされている死者数は1000人足らずだ。しかもその1000人の死因がコロナだという根拠がどこにもない。恐らく大半は別の死因であることは間違いない。老衰がほとんどではないか。実際米国やドイツ、イタリア、フランスでも死者数の水増しが発覚しており、イタリアなどは96,3%ものコロナ死が実は別の原因であったと議員が発表。ドイツではロベルト・コッホ研究所所長が、「コロナが死因か否かには関係なく、検査して陽性反応が出た死亡者を全てコロナ死に計上していた」と言明。フランスでも例えば施設などで、患者(症状有)であろうがなかろうが、陽性反応が一人出れば、施設にいる全ての人が感染者とみなされる。言い換えれば、ある施設で一人検査して陽性反応が出れば、その施設の全員が即座に感染者として扱われ、新型コロナの統計に計上されていたというわけだ。
 
 
 
米国ではコロナと認定するだけで13000ドル(約139万円)、人工呼吸器を使用すると39000ドル(約400万円)ものインセンティブが国から病院に支払われるという。病院の経営者であれば、患者全員をコロナにしてしまうことだろう。しかも死亡者は、日本でも同様だが、コロナ死ではなく、死亡後にコロナ陽性反応が出るまでしつこく検査を繰り返すそうだ。
 
日本の1000人弱のコロナ死もこの手法によるものであろう。実際に現場の医師がそう言われているのだから間違いあるまい。日本の医療機関の場合は都道府県によって多少の違いがあったようだが、最近厚生労働省が以下の交付金事業を発表している。
 
出典 厚生労働省
 
 
 
いずれにしてもコロナ認定されれば、国が全ての費用を負担するため受け入れ病院は個別に患者に入院費や治療費を請求する手間が省ける。現場の医師の方の話によると、この治療費や入院費の請求が大変らしく、中には踏み倒されるケースもあるという。それを考えれば国が全てを負担してくれるのであれば、こんなに楽なことはあるまい。進んでコロナに認定したくもなるというものだ。私自身が病院の経営者だったら喜んですることだろう。
 
 
 
厚生労働省が、死因が何であれコロナとするよう指示を出していることがわかった。埼玉県や沖縄県で発覚したのだが、大阪でも問い合わせた人によると、「国からの指示で」との回答を大阪府職員が当惑した様子でしたらしい。ここまで明確なのに、なぜこの上に及んで人々はコロナなる実体のないものを恐れるのか不可解だ。
 

 

私は簡易健康診断以外の検査など一切しないので詳しいことはわからないが、PCR検査を開発した人が、ウイルス感染の検査に使うべきではないと言い残したとされることは聞いている。それによると、PCR検査という検査手法自体が嘘である。これはもともと、ノーベル化学賞受賞者のキャリー・マリス(2019年没)が発明した検査手法で、彼は「これは感染症の診断には使うな」と言った。この検査方法は、微小な「ウイルス」なるものの遺伝子を増幅し、検出可能なレベルにまで大きくしてから陽性・陰性を判定するもので、その過程で「雑音」も増幅されてしまい、これが大きく結果に影響する。論じる人によって値が異なるが、確実に「コロナ」の人が陽性と判定される率は40%程度という人もおれば、また「コロナではない」人が間違ってコロナと判定される率は10%という人もおり、80%という研究もある。後者の場合、コロナではない健康な人の5人のうち4人が、コロナと判定されてしまい、検査すればほとんどコロナとされてしまうわけだ。さらには、同じ人が続けて検査を受けると、最初は陽性、次は陰性、次は陽性と、結果がコロコロ変わることも報告されているである。ニュースで良く言われる「再感染した」「免疫ができない」というのは、恐らくこのことであろう。そもそもデタラメなので、陽性・陰性が反転するだけの話なのだ。それほどあやふやな検査で、再度、発明者自身が「使うな」と言っているほどなのだ。こんなものを使って「コロナかどうか」を判定すること自体が滑稽なのである。
 
 
 
PCR検査ではインフルエンザはもちろん、従来の風邪でも陽性になるし、タンザニアの大統領が抜き打ち検査したところでは、ヤギやウズラの卵、パパイヤでさえ陽性になったという。米国では余りにも検査で陽性反応が出るので、看護婦が新品の綿棒をこっそり混ぜたところ、それでさえ陽性反応が出たという。つまりは何でも陽性になるということだ。コロナ感染者数を増やしたければ、それだけ検査を行えばよいということになる。それを毎日行っているのが東京都で、選挙やその他の事情によって検査=感染者の数を調整しているようだ。感染者とは無症状で、つまりは架空の感染なのだ。こんな検査ごっこをいつまでやるのかわからないが、日本人というのはまた検査好きで、年中検査ばかりしている人もいるほど。検査自体がどれほど危険なのかわかっていないようだ。特にバリウムのように体内に薬品を入れるような検査やレントゲンのように放射線を当てる検査は寿命を縮めることにもなりかねないので要注意である。先進国(日本が進国なのかどうかも怪しいが)でバリウムを飲ませるのは日本だけらしい。
 

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認知バイアス

 
今から引用する結果ですが私の出した見解ではありません。あくまで参考にして頂ければ良い研究結果ですが、カナダのをウオータールー大学の研究論文の結果が下記です。
 

  • 実験は大きく4つの段階を踏んで行われた
  • 総参加者数は約800人
  • 様々なテストとアンケートをやってもらう

 
名言と迷言を1~5ポイントで評価してくアンケート、思考・認知テスト、語彙力テスト、基礎計算能力テスト、参加者の宗教・スピリチュアル度を計るアンケートなどを実施
 
結果は下記
知性が低い人ほど中身の空っぽなものと名言が区別できなかった
知性が低い人ほどカルト宗教やスピリチュアルにハマりやすい
知性が低い人ほど迷信や超常現象、陰謀論を信じ込みやすい
名言をしっかり区別できた人は知性が高い傾向にあり、物事を振り返る力もあった
 
あきらかに考察力が弱った時、もしくは弱い人が【思考バイアス】に陥る傾向が見られます。確かに教育文化の低い国では子供の頃から死後の世界の階級やスピリチュアルな言葉でマインドコントロールされテロリストになり自爆すると言う悲劇も現実に我々はこの目で見ています。ただ、強いて言えばこの上記研究結果も証明という意味では確実かと言われれば疑問もありますが、参考にする価値はあり、自分自身を冷静に他人の換言に惑わされないように現実を受容して対処する事が必要である事を示唆しています。それだけの精査できる情報量が日本にはあります。そして、在るか無いか解らない無形で答えのないものに費やす議論程無駄な時間は無いと思いませんか。

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頭が悪い高学歴の人     神崎祐典

 
私は高学歴の人をリスペクトする傾向が有る。何故かと言うと難易度の高い学びを継続していた人だと認知する傾向が有るからだ。もちろんスポーツも同じで学生時代に継続してコーチや監督に注意を受け修正を学び続けた人も同様にリスペクトする。
しかし、実社会に出ると私の経験上勿体ない人がいるのが残念である。結論から言えば謙虚さがある人と無い人で全く印象が変わるのだ。もちろん多様な顔を持つのが人間なのだが、私の統計になりあてにはならないが、上手に人と合わせられる人で返って頭の低い人は頭が良く人間関係が豊かで、仕事ができる傾向が有る。きっと、その人達は意識をしている訳では無く人間形成の問題で、バランス感覚を持ち合わせている。これは、学術では無く、成り立ちかなと思うので、リスペクト出来る人の過去に好奇心が湧くのも当然かも知れない。
 
さて問題です。高学歴の馬鹿について書きます。全くこれに関しては生き方が下手糞で勘違い甚だしくある意味、これが燃えつき症候群なのかなと思わざるを得ない。自尊心が高く協調性は低く、周りに気を遣わせる人。空気感もへったくれもない人間。案外これが多い。何を学んだのかと思い大丈夫か?と聞きたくなる。これらは認知バイアスに陥っていると言わざるを得ず、ダニング・クルーガー効果でもあり他人を過小評価する傾向がある人に当てはまる。自己認識をして改革と言うか改心しなければ、結局何のために頑張ったの?と言う話になり、生きて行くこと自体の難易度が高くなってしまい、精神的にも病んでしまう可能性もある。何一つ良い事が無い。まあ一人でする仕事なら問題は無いかも知れないが、自己愛と言うモノにくるまっているだけで、それは悪い意味で壁になり、鋭利な刃物にもなる。
だから厳しさと直面し向き合う必要があると言える。でも心が潰れちゃったら本末転倒だから難しいのだけれど。
 
至って周りのモチベーションを下げる人になるから付き合わないに越したことはない。または気にせずスルーするか、対応はいろいろあるが実はその【人が離れていく】という事態がその人達に対しては注意喚起(気づく気づかないは大きい)になるのではと思う。結局のところ社会に入っていく事に学歴は有利に働くのは確かだけど、社会に入ったら同じ土俵。人間形成に意識を向けられない人間は自分の知らないところで損を重ね、気づかずに行き止まりと言う事になる。
 
【優越の錯覚】自分が陥っていないか、周りを見渡して振り回していないか、意識して思い当たる点があればその人は改善に努めましょう。せっかく頑張った勉強も何の意味も無いモノに成り下がるから。本当に勿体ない。ウサギと亀のお話です。